
「雨の日の下りが、とにかく怖い」
濡れた木道に足を乗せた瞬間、つるっと足裏が流れる。あの感覚を一度でも味わうと、雨の予報が出るだけで気が重くなります。
先にお伝えします。滑るかどうかを決めているのは、靴と地面だけではありません。同じ靴で同じ岩を踏んでも、体重をどこに置いて、どの向きに力をかけるかで結果は変わります。歩行の研究では、この「足が地面に要求する摩擦」がわずかに違うだけで、滑りやすさが大きく変わることが示されています。
私は理学療法士(PT)として臨床経験10年以上、登山歴は140座以上です。滑りやすい場所では歩き方を切り替えるようにしていて、そのおかげか、ひやりとすることはあっても転倒には至っていません。
この記事では、なぜ濡れると滑るのかというしくみと、滑る前に切り替える具体的な歩き方をまとめます。読み終わるころには、雨の日の下りで「どこから歩き方を変えるか」を自分で決められるようになります。
濡れると滑るのは、足りなくなるのが「摩擦」だから
滑りは、足が地面に要求する摩擦の大きさが、地面が返せる摩擦の大きさを上回ったときに起こります。

歩くとき、足の裏には2方向の力がかかっています。体重を支える垂直方向の力と、前に進むために蹴ったり踏ん張ったりする水平方向の力です。この水平方向の力を垂直方向の力で割った値を、歩行の研究では要求摩擦係数(RCOF)と呼びます[1]。要するに「いま自分の足は、地面にどれくらいの摩擦を求めているか」を表す数字です。
一方、地面の側が返せる摩擦には上限があります。乾いた岩なら十分でも、水の膜が挟まると一気に下がります。求める側が上限を超えた瞬間に、足は流れます。
ここまでは当たり前に聞こえるかもしれません。大事なのはこの先です。
わずかな差が、滑るか滑らないかを分ける
要求摩擦係数がほんの少し下がるだけで、滑りやすさは大きく変わります。
成人31名を対象に、実験室で「やや滑りやすい」条件を不意に踏ませた研究があります。この研究では、要求摩擦係数が0.01高いと、滑るオッズが1.7倍という関係が示されました。モデルによる滑りやすさの予測値は、条件によって3%から95%まで開いています[2]。
オッズというのは集団全体での起こりやすさの比で、「あなたが滑る確率が1.7倍になる」という意味ではありません。それでも、0.01という小さな差が、滑る側と滑らない側を分けているという事実は動きません。
この研究は、歩幅を何センチ変えれば要求摩擦係数がいくつ動くか、までは調べていません。それでも、歩き方のわずかな違いが結果に結びついている——ここがこの記事でいちばんお伝えしたいところです。
滑りを決めているのは、足裏ではなく重心の位置
要求摩擦係数を下げる方法は、水平方向の力を小さくすることです。そしてその水平方向の力は、重心と足の位置関係で決まります。
水平方向の力が大きくなるのは、次のような場面です。
- 歩幅が大きい——踵が体から遠い位置に着くほど、足は前に流れる向きの力を受けます
- 速い——同じ歩幅でも、勢いがつくほど水平成分が増えます
- 重心が後ろにある——下りで腰が引けると、足だけが前へ出た姿勢になります
逆に言えば、歩幅を狭め、速度を落とし、重心を足の上に乗せると、要求摩擦係数は下がります。

人は滑る床の上で、自然にこの歩き方になる
滑る床を歩くと、人の歩き方は勝手に変わります。
摩擦係数が約0.06という、かなり滑りやすい歩道を歩かせた研究では、通常の床と比べて歩幅が短くなり、1歩の周期も短くなり、水平方向のせん断力が有意に小さくなりました。足の運びは踵から入る形が薄れ、足裏を平らに置く動きに近づいています。同時に、頭は空間のなかで位置を保とうとし、腕の振りや体幹のひねり、左右への傾きは増えました[3]。
これは平坦で低摩擦な7mの歩道を歩いた結果です。傾斜も段差もない条件なので、登山道の下りに同じ答えが当てはまるとは限りません。それでも、低摩擦の床の上で体が向かう方向が「小さく・ゆっくり・平らに」だったことは押さえておく価値があります。
「滑るかもしれない」と分かるだけで、体は先に変わる
滑る場所だと事前に分かっている場面では、人は踏み込む前から歩き方を切り替えます。

不全脊髄損傷のある19名と、健常な17名(平均61歳)を対象に、滑りを起こす装置つきの通路を歩かせた研究があります。滑ると分かっている条件では、通常歩行に比べて、歩く速度が落ち、歩幅が短くなり、足の接地角度が平らになり、重心が前寄りに置かれました。この先読みの調整は両群で同じように起き、しかも一度滑りを経験しただけで現れています[4]。
対象は登山者ではなく、滑りも実験室のローラーによるものです。この結果をそのまま登山道に持ち込むことはできません。 ただ、先読みで歩き方が変わるという方向は、現場の実感とよく合います。
これがこの記事の背骨です。滑らない人は、運がいいのではありません。滑る前に切り替えているだけです。そして切り替えのスイッチは、足元を見て「ここは滑るかもしれない」と気づいた瞬間に入ります。
だとすれば、次に磨くべきなのは歩き方そのものより先に、滑る場所を見分ける目です。
滑る場所は、雨が降っているかどうかでは決まらない
濡れている場所は、雨の日だけにあるわけではありません。

私の経験でとくに注意しているのは次の4つです。
濡れた木道。表面が平らで水の膜が切れにくく、踏んだ瞬間に足裏が流れます。木道は「歩きやすい道」の顔をして現れるので、油断した状態で乗ってしまうのがいちばん危ない。
苔の乗った岩。苔そのものが水を含んでいて、乾いて見える日でも滑ります。沢筋や樹林帯の日陰は、天気に関係なく湿っています。
木の根と落ち葉。根は木道と同じで表面が滑らかです。落ち葉は、下に何があるか見えなくなるのがやっかいで、濡れた葉が重なると一枚の板のように滑ります。
朝露。これが盲点です。雨がまったく降っていない晴れの日でも、早朝の登山道は濡れています。
この4つに共通するのは、「見た目より滑る」という点です。だから見分ける目を鍛えるより、該当しそうな場所ではとりあえず切り替えるほうが実用的です。切り替えのコストは、少し遅くなるだけですから。
滑らないための歩き方——切り替える5つ
滑りそうな場所に入ったら、次の5つを同時に切り替えます。どれもその場でできることです。

1. 歩幅を半分にする
歩幅を狭めると、踵が体の近くに着くので、前へ流れる向きの力が小さくなります。 滑る床の上で人が自然に選ぶ調整と同じです[3]。
数字で決めるより、「いつもの半分」と覚えるほうが山では使えます。歩数は増えますが、疲労より転倒のほうが高くつきます。
2. 足裏を平らに置く
踵から突っ込まず、足の裏全体を同時に置きます。 踵から入ると接地の瞬間だけ極端に狭い面で体重を受けることになり、そこで滑ると立て直せません。
滑ると分かっている場面で、人が足の接地角度を平らにすることは実験でも確認されています[4]。山では、それを意識的に、早めにやります。
3. 膝を軽く曲げて、重心を落とす
膝を伸ばしきらないと、重心が下がって、滑ったときの立て直しに使える余裕が生まれます。 棒立ちのまま滑ると、足だけが逃げて体は倒れます。
下りで腰が引けるのは、怖さから来る自然な反応ですが、逆効果です。腰を引くと重心が後ろに残り、足だけが前に出た「いちばん滑りやすい姿勢」になります。怖いときこそ、重心を足の真上に置く。下りでの体重の受け方は登山の「下り」で膝を守る歩き方で詳しく扱っています。
4. 「置いてから乗る」を1歩ずつ
足を置いた瞬間に全体重を預けず、置いて、滑らないと確かめてから乗る。 これを1歩ずつ繰り返します。
普通の歩行は、次の一歩を信用して体重を先に送る動きです。滑る場所では、その信用をいったん外します。テンポは落ちますが、滑った瞬間にまだ後ろ足に体重が残っていれば、それは転倒になりません。
5. 目線は2〜3歩先へ
足元だけを見ていると、切り替えが間に合いません。 濡れた区間に入ってから気づくのでは遅く、入る前に気づいて切り替える必要があります。
滑る床では頭の位置を空間のなかで保とうとする動きが出ることも報告されています[3]。頭を安定させたまま数歩先を見るのは、理にかなった姿勢です。
靴とポールでできること、できないこと
道具は摩擦の「地面が返せる側」を底上げしますが、上限を消してはくれません。
靴——効果はあるが、すり減ったら別物
靴底の素材と表面の状態は、濡れた面での摩擦に影響します。安全靴の靴底素材を19種類の濡れた面で比較した研究では、同じ素材でも、新品・摩耗して粗くなった状態・磨いて平滑にした状態で摩擦係数が変わりました[5]。
工業用の安全靴を対象にした試験なので登山靴そのものの話ではありませんが、靴底が平滑になると濡れた面での摩擦が落ちるという方向は共通です。ソールの溝が浅くなった靴で雨の日に入るのは、それだけで不利を背負うことになります。
実際の山のデータもあります。富士山の下山者1061名を対象にした調査では、男女を通じて転倒リスクの低下と関連していたのは、登山靴を履いていること、疲労を感じていないこと、長い下り道の情報を事前に持っていることの3つでした[6]。質問紙による調査なので因果関係とまでは言えませんが、示唆ははっきりしています。靴の選び方は登山靴の選び方にまとめました。

ポール——支点は増えるが、免罪符ではない
同じ富士山の調査では、ポール使用が転倒リスクの低下と関連していたのは女性のみで、男性では統計的な関連が出ていません[6]。
ポールは接地点を増やしてくれますが、突いた先が滑れば一緒に流れます。濡れた岩の上にポールを突いて体重を預けるのは、滑る面を1つ増やすのと同じです。突く先も、置いてから乗る。
そしてもう1つ、転倒しそうになったらポールから手を抜く。握ったまま倒れるとグリップが支点になり、親指の付け根を痛めます。この点はトレッキングポールの正しい使い方で詳しく扱っています。
年齢を重ねると、慎重に入るだけでは足りなくなる
若年14名と高齢14名に、石けんを塗って隠した滑りやすい床を不意に踏ませた研究があります。結果は少し意外でした。高齢群は、滑りの入り口ではむしろ慎重だったのです。要求摩擦係数は若年群より低く、滑った距離も短く、滑る速度も遅い。踵が接地する瞬間の速度にも、若年群との差はありませんでした。
それなのに、転倒したのは高齢群のほうが多かった。 研究者は、滑り出しの特徴だけでは高齢者の転倒を説明できないと結論づけています[7]。あわせて、ハムストリング(もも裏の筋肉)の活動の立ち上がりは若年群のほうが速いことも示されました。
読み取れるのは、慎重に入ることは必要だが、それだけでは足りないということです。濡れた路面と不整地では、高齢者ほど慎重な歩き方に変わることも報告されています[8]。慎重さは、年齢とともに自然に身についていく。だからこそ、それでも残る差のほうに目を向ける必要があります。
それでも滑ってしまったら
滑り出してから取れる手は多くありません。そして、「こう転べば安全」という正解は書けません。斜面の向き、下に何があるか、転落の危険があるかで、取るべき動きが変わるからです。
ここで書けるのは2つだけです。
- 無理に手だけで止めようとしない。 とっさに腕を突っ張ると、体重と勢いが手首の一点に集まります
- 止まってから、体を確かめる。 動けるかどうかより先に、頭・首・手足の痛みやしびれ、変形の有無を見る
この記事の研究について——分かっていないこと
ここまで挙げた研究のうち、実際の登山道で行われたものは富士山の転倒調査だけです[6]。要求摩擦係数も、滑る歩道の歩行も、先読みの調整も、すべて実験室の平らな床での結果です。
濡れた岩や木道を直接調べた歩行研究は、私が探した範囲では見つかりませんでした。ですからこの記事は、平地の滑り研究で分かっているしくみを、登山道に当てはめて読み解いたものです。数字をそのまま山に持ち込めるとは考えないでください。
そのうえで、方向は信頼できると思っています。歩幅を狭め、足を平らに置き、重心を足の上に乗せる——低摩擦の床の上で人がこの方向に調整することは、複数の研究で一貫して観察されています。
まとめ:滑らない人は、滑る前に切り替えている
- 滑りは、足が求める摩擦が地面の返せる摩擦を超えたときに起こる。濡れると地面側の上限が下がる
- 要求摩擦係数が0.01高いと、滑るオッズは1.7倍(成人31名・実験室の平地歩行)。集団での起こりやすさの比であって、個人の確率が1.7倍になる意味ではない
- 地面は変えられず、靴もその場では替えられない。今すぐ変えられるのは体の使い方だけ
- 切り替えるのは5つ。歩幅を半分に/足裏を平らに/膝を曲げて重心を落とす/置いてから乗る/目線は2〜3歩先
- 滑る場所は雨の日だけではない。濡れた木道、苔の岩、木の根と落ち葉、そして晴れた日の朝露
- 早朝は濡れと暗さが重なる。暗いうちは濡れている前提で歩き、数歩先を照らせる配光のライトを使う
- 靴とポールは地面側を底上げするが、上限は消せない。すり減ったソールで雨の日に入らない
- 判断は区間で入れる。濡れた区間の入口と出口だけを見て、その間はずっと切り替えたままにする
雨の日の下りが怖いのは、足元で何が起きるか分からないからです。しくみが分かって、切り替えるスイッチを持てば、怖さは「注意すべき区間」という具体的なものに変わります。
ただし、歩き方で埋められるのは滑りの部分だけです。雨の日には、視界の悪さも、沢の増水も、体温の低下も、同行者の消耗も同時に来ます。
次に雨の予報を見たら、どこで歩き方を切り替えるかと一緒に、どこまで行ったら引き返すかも決めておいてください。切り替えと撤退は、どちらも「先に決めておく」という同じ一手です。
参考文献
- Redfern MS, Cham R, Gielo-Perczak K, Grönqvist R, Hirvonen M, Lanshammar H, Marpet M, Pai CY, Powers C. 2001. Biomechanics of slips. Ergonomics.
- Beschorner KE, Albert DL, Redfern MS. 2016. Required coefficient of friction during level walking is predictive of slipping. Gait & Posture.
- Cappellini G, Ivanenko YP, Dominici N, Poppele RE, Lacquaniti F. 2010. Motor patterns during walking on a slippery walkway. Journal of Neurophysiology.
- Bone MD, Arora T, Musselman KE, Lanovaz JL, Linassi AG, Oates AR. 2021. Investigating proactive balance control in individuals with incomplete spinal cord injury while walking on a known slippery surface. Neuroscience Letters.
- Manning DP, Jones C. 2001. The effect of roughness, floor polish, water, oil and ice on underfoot friction: current safety footwear solings are less slip resistant than microcellular polyurethane. Applied Ergonomics.
- Uno T, Mitsui S, Watanabe M, Takiguchi C, Horiuchi M. 2023. Different Influencing Factors for Risk of Falls Between Men and Women while Descending from Mount Fuji. Wilderness & Environmental Medicine.
- Lockhart TE, Kim S. 2006. Relationship between hamstring activation rate and heel contact velocity: factors influencing age-related slip-induced falls. Gait & Posture.
- Menant JC, Steele JR, Menz HB, Munro BJ, Lord SR. 2009. Effects of walking surfaces and footwear on temporo-spatial gait parameters in young and older people. Gait & Posture.
- Knobloch K, Vogt PM. 2006. Nordic pole walking injuries — nordic walking thumb as novel injury entity. Sportverletzung · Sportschaden.